☆平成8年度学会暦☆
H8-8/23-24 第14回大会(長野)
H8-11/16 第92回例会(東京大学)
H9-3/8 第93回例会(日本大学の予定)
☆平成9年度学会暦☆
H9-6/14 第94回例会(日本大学の予定)
H9-9/6 第15回大会(30周年記念講演あり)
H8-11/15 第95回大会(神楽坂の出版会館)
例会ならびに記念式典とパーティー
会計担当理事 石川郁二
2. 第15回大会(平成9年9月6日)にての研究発表をご希望の場合には下記までお申し込み
ください。発表時間は30分です。
〒165 中野区鷺宮 4-25-12 曽村充利 大会担当理事 宛
記録
日本人が話す英会話に、いかなる性差がみられるのかというテーマについて考察したい。Gass と Varonis (1986)は、"sex differences in NNS/NNS interaction" の中で、 英語を母国語とせず、かつ、共通の母国語をもつ人達の英会話の性差について検証している。私は、1995年に、日本人を被検者とする実験をして、様々なデータを得た。 今回の発表では、それを基に、いかなる性差が存在するのか論じ、かつ、Gass と Varonis のデータとの比較も試みたい。
「十九世紀イギリスにおける動物愛護運動」
発表者:田辺 治子(麻布大学)
十八世紀にはヨーロッパで最も動物に対して残酷な国といわれていたイギリスが十九世紀以後、動物福祉の先進国となったのは、動物虐待に対する反動ということもあるが、 その背景にビクトリア女王を頂点とする慈悲心の発露と、都市化・工業化という社会の変化が存在する。動物愛護運動は、Humane Movement と呼ばれるが、スラム街の子供 の救済、パブリックスクールの改革、監獄の改善などの、十九世紀の一連の人道主義運動の一環としてとらえることができる。そして、運動の中に貴族や富裕階級を取り込 むことと、労働者階級の動物愛護教育に尽力することによって、上品でファショナブルな運動へと発展して、十九世紀末までには、British culture の一部となる。このよ うな背景をもつ動物愛護運動が、第二次大戦後導入された日本で、文化摩擦をおこしている現状についても考えたい。
勝浦吉雄 (立正大学)
開催月日:平成9年3月8日(土)
場 所:日本大学歯学部3号館2階第5講堂 (お茶の水ニコライ堂隣)
時 間:15:00−17:00 受付14:30
参加人数:60名 懇親会:於 モーツアルト 会費5,000円
参加人数:40名
糸井 江美(フリーランス翻訳業)
司会 岸山 睦(昭和女子大学)
2. 日米比較文化から異文化理解への核心へ
淺間 正通(静岡大学)
司会 鷲 直仁(ヒューマン国際大学)
1. 「断わり方」のコミュニケーション・ルール:日本人学生とニュージーランド人学生 の比較
発表者:糸井 江美
異文化間コミュニケーション論の分野では、直塚が欧米人と日本人の「断り方」の違 いを豊富な具体例をもとに分析している。彼女によると、欧米人も日本人も誘いを断る 時に婉曲な表現をしばしば使用し、断る為に罪のない嘘をつくのが原則である。
本研究では、日本人学生とニュージーランド人学生の「断り方」を比較した。データ はアンケート調査によって収集し、補足的にインタビューを行った。アンケートの設問 では、被験者が応諾するか断るかの葛藤が起こるような「気の進まない状況」、例えば 、面倒なことを依頼されたり、同意できないことを提案されたり、好みに合わないもの を提供されたり、気の進まない招待を受けたりした時に、どのような言語行動を行うの かを調べる為の状況が設定されている。データは以下のコミュニケーション・ルールの 観点から比較する。
1)「理由」の使用頻度と内容、2) 曖昧表現「考えておきます」の使用頻度と発話者の 意図、3)「謝罪」の使用頻度、4)「断り方」に現れる性差。
発表者:淺間 正通
「異文化理解」というキャッチフレーズが「国際理解」という言葉と共に国際化のキーフ レーズとなって久しいが、そのアプローチは依然、旧態然のままである。何故か?確か に教育の場にあっては英語教育現場を眺めてみる限り検定教科書には実に数多くの国々 が登場し始めて、一つの変革を促したようにも思える。しかしながら、その実体とは単 に諸外国の風俗・慣習・制度にあるような表面的異質性を披瀝するにとどまり、当該文化 の底流に流れんとする感情を汲み取るまでには至っていない。ここに、一つの打ち破ら ねばならない壁が存在する点に着目したい。すなわち、表面的には世界文化を視野に入 れた異文化理解の在り方が模索される中で、英米文化を柱とした先進国文化を志向しよ うとする風潮は相も変わらず拭い去られていないのである。その背景には、異文化を扱 う場合の教材、異文化理解教育に携わる教授者の知識などが圧倒的に英米文化に偏って しまっているという事実にも帰因するであろうが、異文化における表面的異質性とそこ に暮らす人々の精神的異質性を安直に同一視しないがためにも、本発表では、この点を 深く省みることによって異文化理解のあるべき姿を追求し、一つの提案を試みようとす るものである。